信じるか信じないかはあなた次第!?「お茶壺道中の都市伝説」

 「つる産業まつり」では、江戸時代、将軍の「御用茶」を詰めたお茶壺を、京都の宇治から将軍家がいらっしゃる江戸城まで運ぶ際に行われていた「お茶壺道中」を歴史絵巻として再現しています。ですが何故、山梨県の都留市(江戸時代当時は谷村藩)で道中が行われるのでしょうか。

 京都・宇治でお茶壺を受け取り、中山道を通って甲州街道に入り、甲州谷村に立ち寄って壺の一部を谷村勝山城に預けるのが習わしでした。谷村は山間部であるため江戸よりも涼しく、江戸からも近いという利点があったため、夏の間は勝山城の茶壺蔵でお茶を寝かせ、秋になると旧暦10月初め頃に行われる「口切の茶事」に間に合うように、江戸から取りにきていたのです。加えて、「霊峰」と呼ばれ信仰の対象にもなっていた富士山の麓でもある谷村藩にお茶を置くことによって、お茶が富士山の霊気を蓄え、美味しさを増す、とも考えられていたようです。

 「霊峰」というとなんだかスピリチュアルな雰囲気が漂いますが、実はこのお茶壺道中には、ちょっと不思議な都市伝説があります。

 「レイライン」(ley line)という言葉をご存知でしょうか。パワースポットや重要地点などを直線状に繋いでできる線のことで、神秘的なパワーを持つと言われています。

 下の地図に、京の御所と江戸城(現在の皇居)を線で繋ぎ(赤い線)、徳川幕府の創始者、徳川家康公をお祀りする、「久能山東照宮」から「富士山」を経由し、「日光東照宮」まで直線で繋いでみました(黄色い線)。(地図画像をクリックすると、大きい画面で確認できます。)

 なんと、偶然にも山梨県東部(都留市及び富士山周辺)で二つの線が交差しました!レイラインの交差点は強力なパワースポットであり、社格の高い神社なども存在しています。(神奈川県にある寒川神社が有名でしょうか。)先述の「お茶が霊気を蓄えて…」という話も、あながちデタラメな冗談では無いかも…?

 信じるか信じないかは、あなた次第です。

お茶壺道中行列

都留市上谷の金毘羅神社から産業祭りのメイン会場である谷村第一小学校校庭まで、お茶壺道中を再現します。
お茶壺道中行列

お茶壺

行列は金毘羅神社の境内を出発し、長安寺前、大手通りを行進。メイン会場に入場後は、行列で運んだお茶を殿様に渡す、『受け渡しの儀』が行われます。

お茶壺

受け渡しの儀

↓↓ 交通規制図 ↓↓
kiseizu1

ずいずいずっころばし・・・

♪♪♪♪♪♪♪
ずいずいずっころばし ごまみそずい
茶壺に追われて とっぴんしゃん
抜けたら どんどこしょ

俵のねずみが 米食ってちゅう
ちゅうちゅうちゅう

おっとさんがよんでも おっかさんがよんでも
行きっこなしよ
井戸のまわりで お茶碗欠いたのだぁれ
♪♪♪♪♪♪

古くから日本に伝わる童謡、『ずいずいずっころばし』
この手遊び歌は、お茶壺道中を歌った歌と言われています。

お駕籠に乗せて運ばれる、お茶壷

慶長18年(1613)~幕末の慶応3年(1867)まで250年に渡って続いた、徳川将軍家御用達の茶を江戸城に運ぶ宇治採茶使一行を「茶壺道中」と呼びました。
その途中、一部は甲州谷村(現在の都留市)の勝山城で夏の間、保存と熟成のため茶壺蔵へ格納されたといわれています。
徒歩頭が年番で採茶使をつとめることが定められた寛永年鑑からは、たとえ大名であっても道中で茶壺に行き会えば、その通行を優先するほどの権威が「茶壺道中」にはあったと言われます。
そのゆったりとした一行の独特の歩き方…籠に乗せられまるで将軍のように扱われる茶壺…忠実に再現された現代の「茶壺道中」からは、江戸時代当時の権威をも感じることができます。